今日は、阪神・淡路大震災が発生した日です。

「明日が当たり前のようにやってくる」

という生活が、本当はとても尊いものだということを、
知りたくもなかったのに、否応なく知らされた日でもあります。

出来れば一生知りたくなかった。


あれから18年が経ちました。

でも、毎年思います。
「もう××年も経ったのか-」

呆然としすぎて涙も出なかったことや、
底が見えない絶望感は、いまも忘れられません。

「忘れない」んじゃなく、「忘れられない」です。

もう二度と、あのような経験をしたくない、
という思いだけが、とてもとても強い。

報道では、一昔前のニュースとして、
「忘れてはいけない教訓」扱いですが、
いまも直視できません。

風化されることは絶対的に良くないとも思いますが、
それでも、他人の、地震を経験したことがない人の、
地震で誰かを喪ったことがない人の「教訓」となるために、
毎年、記憶を掘り出されるのも、やっぱり苦しい。

私にとっては「こんなことがあったよ」という
どこかの出来事ではなく、喪った経験だから。

地震を経験したことがない方や、
地震によって、何かを、誰かを喪ったことのない方には、
決して、決して、分からないと思う。

分かって欲しいとも思わない。

だから、せめて、そっとしておいて欲しいと思う。

18年前が「教訓」ではなく「記憶」である人が、
静かに悲しみにひたる時間を、そっとしておいて下さい。

無理に寄り添おうとしなくても良いから。
せめて、せめて、道具にしないで欲しい。
・いざというときに、団結できる私たち
・思いやりの心をもった私たち
・悲しみを乗り越える私たち

こういう表面だけ飾られた言葉を言い出すときの、
道具にしないで欲しいと思う。

自己陶酔と自己満足のために、利用しないで。

悲劇を見て、関係のない人間がワーワーと騒いでも、
それは時と場合によっては、迷惑でしかないと理解して下さい。

無理に誰かの役に立たなくて良いんです。

邪魔にならないようにすることが、
最大の「役立ち」である場合もあるんです。

何をしたら良いのか分かりもしないのに、
動くことは、自分の「何とかしないと」という
欲求を満たすことを目的としてるだけです。

「誰かの役に立ちたい」という言葉を隠れみのにして、
自分の欲求を満たすことを優先しないで下さい。

安全圏にいる自分達の防犯意識を高めるのに役立つから、
という身勝手な理由で、あったかどうか分からない
悪意あるデマを広げないで下さい。

分かってくれなくていいから、せめて人の死を
教訓どころか、自己満足の道具にしないで。

本気で教訓として活かすのなら、非常袋を用意して、
避難場所や避難経路を調べてください。

何を、どれだけ持っていれば、3日間持つか確認して、
いざと言うときに備えてください。

何かあった時に、自分がするべきことを
箇条書きにしておいてください。

とにかく、自分と、自分にとって大切な人を守るために、
出来うる限りの対策はとってください。

パニックを起こして、デマを流したり、
拡散したり、意味なく騒ぐような余裕なんて一切ありません。

その余裕があるなら、被害がかなり少ないんです。

ちょっと停電したり、携帯電話が通じなくなる、
というような「都市機能が麻痺」程度じゃないんです。

地震という自然災害なんです。

そのときが来たら、何とかなるさ、は無理です。

あれは、どうにか出来るものじゃありませんし、
誰もが余裕なんてなくなります。

その時に「誰も助けてくれない~」なんて
泣いたって、どうにもなりません。

助け合いは出来ても、一方的に人を助ける、
ましてや、一方的に助けられるなんて無理です。

せめて「助け合い」が出来るレベルまで、
何とかしておくことを「備え」というのだと思います。

それこそ自己陶酔でも自己満足でも良いです。
きっちりと備えてください。

備えがあっても、憂いは残りますが、
それでも、あるとないとでは違います。

対岸の火事を楽しんでる時間があるのなら、
あなたとあなたの大切な人のために行動して下さい。

いざというときに、明日を乗り越えるための
用意をしてください。

自分に出来ることだけ、理解できることだけして下さい。

出来ることならば、その準備をするのに、
いちいち「ああならないために」と、
引き合いに出さないで。

それだけです。